「ウサギとカメで、カメが勝てた理由がわかるか?」
1995年に創業し順調に成長していた運送会社・株式会社ハーツはある日突然、ほぼすべての仕事を失います。社長の山口裕詮さんが廃業の瀬戸際、死を覚悟する中で、経営・人生の師と仰ぐ「つぼ八」創業者から投げかけられたのが冒頭の質問でした。そこでのやり取りを胸に、同社はBtoBの下請けからBtoCサービスへと業態を転換。起死回生に成功します。これまでに2度、周囲から「山口、終わったな」と言われた同社の軌跡。1回目の経営危機と業態転換について伺います。
1969年、函館生まれ。大手運送会社で経験を積み独立。1995年(26歳)に有限会社ハーツを創業しBtoBの下請け配送サービスを展開。経営危機を経てBtoCの引っ越し業界に参入、業界初の運転手付きレンタルトラックサービス「レントラ便」を開発。東京商工会議所「勇気ある経営大賞ファイナリスト」「東京商工会議所「イノベーション創出事例企業2022」知財経営モデルの創出企業100社」、経産省「中小企業IT実践企業」。「2020年 中小企業白書 「新たな価値を生み出す中小企業」事業モデル紹介
▼人生の師「つぼ八」創業者が語った「ウサギとカメ」の勝敗を分けたもの
――貴社は度重なる経営危機に見舞われながらも、「恩師の言葉」を胸にそれを乗り切られたとのこと。
山口裕詮さん(以下、山口):2019年に亡くなった「つぼ八」創業者の石井誠二さんには本当にお世話になりました。中小企業家同友会の先輩でいつも経営相談に乗っていただき、プライベートでゴルフもご一緒させていただいていました。僕は函館出身なんですが、息子さんが函館の大学を出て僕と同い年だったり、いろいろと共通点もあり可愛がっていただきました。
僕は1995年にBtoBの運送会社を起業して、これまでに2度経営危機に陥りました。その都度周囲から「山口、もう終わったな」といった目を向けられるのですが、今こうして会社をやりくりできているのは、石井さんからいただいた言葉が本当に心に響いたからでした。
当時は売上の8割を失って、それこそ一度は死を考えながらも「どうせ死ぬなら、前のめりに」と決意を新たにした頃。それでも心のどこかに、まだ人生や会社への迷いがありました。
――どんな言葉だったのでしょう?
山口:石井さんから「山口君、寓話ウサギとカメで、なぜウサギは負けて、カメは勝ったんだと思う?」と問いかけられたんです。僕は「ウサギが先に休んだからじゃないですか?」と…ごくごく普通の返事をしました。
すると石井さんは「そうじゃない」と。
続けて、こう仰いました。
「『どこを見ていたか』で勝ち負けがついたんだよ」。
ウサギは、カメを見ていました。では、カメはどこを見ていたのか?カメは、ゴールを見ていたのです。
相手が速いかどうか?どこで何をしているか?そんなことはまったく関係ない。カメはまっすぐゴールだけを見ていた。だから勝てたんだ、と。
「経営も人生も、全部一緒だ」と石井さんは続けました。
どこを見て経営するか。何を目指して生きるか?それが定まってないから、ぶれる。隣の会社が儲かっていようが、取引先が厳しかろうが、さらに言えば自社が赤字だろうが一切関係ない。とにかく『自分の目標、ゴールを定めて、そこだけを見ろ』と。
この言葉は本当に響きました。そこからあらためて「(脱下請けのための)新しいBtoCの運送サービスを作る」という自分のゴールを定め、よそ見をせずに経営してきたことが、引っ越しサービスの「レントラ便」や、インバウンド向け運送サービス「東京ポーターサービス」の誕生に繋がっています。
▼「山口、終わったな」。下請け契約の解除、売上の8割を失う
――そもそも、経営危機に陥った理由は何だったのでしょうか?
山口: 個人事業主として運送サービスを創業して 6年目、会社が順調の頃でした。社員は約15名、トラックは協力会社を含め30台ほどだったと思います。
仕事はすべてBtoBの下請けで、どんどん新規開拓していました。割の悪い仕事はお断りしながら、より利益が出る形を目指すうちに、とある一部上場企業の「一社依存」になっていったのです。
ただ、その状態がずっと続けば、高利益体質なので経営としては悪くありません。その時が来るまでは「なかなかうまくやっていけているな」という感覚すらありました。
――その時、というのは?
山口:書面で通知が来たんです。「半年後に契約を終了する」と。
実は過去にも似たような噂はあって、その都度噂で終わっていました。ですので、万が一の準備もしていませんでした。でもそれが、書面という形で現実になった…。
――どのような心境だったのでしょう?
山口:「人生、終わった…」と。売上の8割がなくなるわけですから、会社は存在できません。周囲から2回言われる「山口、もう終わったな」の1回目ですね。
とはいえ「あと半年あるのだから、やれることをやろう」と腹を決め、取引先の社長に直談判に行きました。
――一部上場企業の社長に直談判ですか?
山口:はい。というのも、取引終了の理由は「運送業務の内製化」とのことでした。これは会社としての決定事項ですので、いつもやり取りしている担当者や部門長に掛け合っても変えられません。覆せるとしたら、社長だけだと考えました。
普通に連絡しても絶対に取り次いでもらえないので、アポなしで突撃しました。ダメ元で何回も…。そのうち、受付の方から社長にお話が行っていたのか、『社長、いつもの運送会社の方がまたいらっしゃいましたよ」と、つないでいただけました。何とか一回、会えたんです。
――どのような話をされたのでしょう?
山口:「せめて相見積もりを取ってほしかった。改めて見積もりを出すので再検討いただけないか」とお願いしました。しかし返答は「自分一人の意見で覆すことはできない」と。
悔しかったですが、当然の回答ではありました。ただそこで、社長が知り合いの物流会社の社長を紹介してくださったんです。その場で電話をしていただいて。これは本当にうれしかったですね。
後々わかったことなのですが、直談判に伺った社長から紹介された知り合いの物流会社の社長は僕と高校がたまたま一緒だったんです。それから、親しくさせていただくようになりました。
――社長への直接交渉で、次の仕事が見つかったわけですね。
山口:そうですね。ただ、ご紹介いただいた案件は単発の仕事で、長くは続きませんでした。
僕はこの一連の出来事から、BtoBの厳しさを思い知りました。結局、運送業におけるBtoBの仕事は「価格勝負」なんですよ。「この料金でこの仕事できますか?」と指値で来られたら、「できません」とは言えない。断ったら、仕事がゼロになるわけですから。
▼「死に方を教えてほしい」から「どうせ倒れるなら、前向きに」
――失った8割の売上を取り戻さなくてはいけません。
山口:じわじわと契約終了の期限が近づいてきます。「4月には会社をたたまなきゃいけない…」と、正直、心は折れかけていました。「もう死ぬか…」という選択肢も脳裏をよぎるほど、常に強烈な不安が付きまとっていました。
いよいよ死を意識した時、なぜか戦争に兵隊として行った叔父に会いたくなり、地元の釧路に向かいました。叔父にぼんやりと「死に方を教えてほしい」と聞きました。叔父は戦地でさまよった体験など、色々な話をしてくれました。しばらく叔父と過ごして、そうした話を聞いているうちに、「一度、死んだつもりになって立ち向かおう」という気持ちになりました。
そのタイミングで、以前の取引先から「うちの4トントラックの仕事、やるかい?」と声をかけていただきました。出会いのきっかけは、その取引先の福利厚生の釣りクラブ。お付き合いもあって、僕も参加していました。
しかし、自社にあるのは軽トラックだけ。4トントラックは協力会社にお願いするしかありません。でも、それだと利益が出ない。さらに言えば、4トンは許認可が違うので、未知の分野への挑戦というリスクを取らなくてはなりません。
あらためて腹をくくりました。「一般貨物自動車運送事業をやろう。どうせ倒れるなら、前向きに倒れよう。」と。頭の片隅にあった、会社の清算という選択肢をここできっぱり捨て、最後の最後まで会社を続ける決断をしました。
そうなると、やることはシンプルです。
「資金が必要だ。借りられるだけ借りよう」。
各所に必死の交渉をして、当面の運転資金3,000万円を調達しました。
そして冒頭の石井さんの言葉もあり、取引条件のコントロールが難しいBtoBの仕事は減らして、『BtoCのサービスを作る』をゴールに定め、そこだけを目指すことにしました。
▼ どんな業界、業種でも突破口はきっとある。他の経営者の背中に学ぶ
――とはいえ、BtoCのサービス作りも簡単ではないはずです。
山口:そうですね。ただ、会社を存続させるには、絶対にその方向だという思いがありました。
これには「サヤカ」という機械メーカーの創業者・猿渡さんの影響がありました。やはり、中小企業家同友会で知り合いました。元々は機械関係の商社だったのですが、メーカーに転じて、今は業界シェア7割の素晴らしい業績をあげられています。
業態変更の最大の理由は、外的要因を乗り越えるためでした。小規模の商社では、オイルショックやリーマンショックのようなことが起こるとひとたまりもない。そこで独自の製品を作り始めた。猿渡さんから「強い会社をつくるためには自社で作る製品・サービスは、絶対あった方がいいよ」というアドバイスをいただいていました。
もう一人、絶対に外せない恩人がいます。「三和デンタル」という歯科技工メーカーの社長だった菅沼さんです。歯科技工士業界には、技術を身につけると独立する風土があるらしいのですが、そんな技士たちを集めて組織化することに成功した人です。
「俺だって業界になんとか風穴を開けられたんだ。どんな業界、業種でも突破口はきっとある」と言われました。勇気付けられましたね。
▼「今あるもの」と「今あるもの」を掛け合わせて「今までになかった価値」を生む
――平成15年。そしてBtoCの独自サービスとして「引っ越し」に辿り着きます。
山口:「自社のサービスをどうするべきか?」と考え抜いた結果、そこに辿り着いた形ですね。運送業におけるBtoCのメイン事業といえば、宅配か引っ越しです。宅配を選んだとしても、ヤマトさんや佐川さんになれるわけではない。規模が小さくても戦えるのは引っ越しだろう、と。
とはいえ、企業の下請けとして倉庫にしか行ったことがなかったので、はじめは恐る恐るでした。「半歩でもいいからBtoCに足を踏み入れてみよう」と作ったのがホームページ(HP)。当時はまだHPを持っている会社はそれほどなく、これが僕にまったく新しい景色を見せてくれました。お客様の声や相談が、直接入ってくるのです。
その中で、自社サービス「レントラ便」を発想するきっかけとなったのが、東京理科大学・鳥人間コンテストサークル様からの問い合わせです。引っ越しサービスを応用した形での、飛行機部品を運ぶ相談でした。
「4トントラックを借りたいが、大手だと料金が高い。それに、レンタカーは慣れないトラックの運転は怖い」と仰っていました。その相談を聞くうちに、「ここに何かヒントがある…」と感じたんです。
「トラックに特化したレンタカー」と「プロのドライバーによる運転」。この2つを組み合わせれば、その悩みはなくなるんじゃないか?世の中にある困りごとを解決すれば、それが仕事になるはずだ!
「今あるもの」と「今あるもの」を掛け合わせて「今までになかった価値」を生む。レントラ便はまさにそんなサービスでした。
▼「前向きに行くって決めたんだろ。だったらやってみろよ」
――2006年、レントラ便は業界初の時間単位制の料金システムとして「中小企業経営革新支援法」の承認も受けます。
山口:正直に言えば、はじめは疑心暗鬼でした。サービスって無形じゃないですか。誰でも真似できてしまうのではないかと…心配だったんです。でもそんな時、つぼ八の石井さんが背中を押してくれました。「前向きに行くって決めたんだろ。だったらやってみろよ」って。
スタートから1ヶ月で6数件、2ヶ月で24数件の注文が入りました。実際にお客様の声を聞くと、とても喜んでいただけました。HPからの問い合わせも好調で「レンタカートラック」「レンタルトラック」の検索ワードではずっと上位表示されていました。
――目標にしていたBtoCのサービスがやっと軌道に乗るわけですね。
山口:でもそこで、資金がありませんでしたが、さらに150万円の借り入れをして、とりあえずHPをリニューアル。もう命がけでした。やっと糸口が見えたレントラ便と心中しよう、という気持ちになっていました。
ご利用いただいたお客様には喜んでいただけるものの、それだけでは目標の営業数字には届きませんでした。BtoCで一般のお客様への認知を広げるのは本当に大変だと痛感しました。「砂漠に水をまいているんじゃないか…」そんな気持ちにもなりました。
良いサービスを作れたという自負はあったものの、ビジネスとして軌道に乗るまで会社が耐えられるかどうか…。でも、前を向いて進み続けるしかありません。
そんな折、「レントラ便」に対して周囲の業界のネガティブキャンペーンが始まり、さらには社内の大混乱によって…2回目の「山口、終わったな」が起こることになります。
※後編に続きます。