代表略歴

レントラ便に至る道

昭和44年 函館

北の大地で見た、見果てぬ夢。

レントラ便の創業者、山口 裕詮は昭和44年、函館で誕生した。北海道の雄大な自然の中、美しい街が広がる函館で山口は青春時代を過ごす。

雄大な函館山の麓に位置する函館西高校を卒業した山口は、親しんだこの街を離れ、上京することを決意する。昭和63年、山口19歳の時であった。

時代はまさにバブル真っ只中。ちょうどこの年、青函トンネルが完成している。日本中が物凄い勢いで脈動している。まさにそんな時代の最中だった。

昭和63年 東京

躍動の時代、荒々しい東京の息吹。

上京した山口は、運送業の世界に飛び込む。20歳の年、佐川急便に入社するとともに東京の街を走り回る日々が始まる。

佐川マンたるもの、歩くなかれ。「佐川イズム」と呼ばれ畏怖される厳しいな環境の元、山口は運送の世界のまさに最前線で働いていた。

バブル景気で賑わう東京の街、日夜街は喧騒にあふれ、近い将来訪れる倦怠ムードの漂う暗い時代の気配は微塵もなかった。

数年間、山口は喧騒にあふれる東京の街を走り続けた。

平成5年

独り立ち、そして苦難へ

1990年1月、日本の株式市場は突如、暴落を始め、狂騒に満ちたバブル時代が幕を閉じる。

平成5年、山口は新たな運送サービスを立ち上げることを決意。個人事業主として創業する。相棒は軽トラック1台。平成7年には法人化を果たし、「有限会社ハーツ」を設立した。山口27歳の年であった。

平成13年、突然危機は訪れた。当時、取引先が一社依存状態になっていたが、その取引先の仕事が無くなってしまい、売上の8割を失うという絶対絶命の危機に直面する。

山口は苦しみ、もがく中で覚悟を決めた。「ピンチはチャンスだ!これを機に一般貨物自動車運送事業に進出しよう」と。

これを機に、ハーツを株式会社化するとともに、脱下請けを目指し、独自サービスを開拓するための新しい挑戦が始まった。